神様と二人三脚 

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飢えと絶望の果て

06 19, 2013




今年は、
父が亡くなって15年の式年です。
今もし父が生きていれば88歳です。
秋には、父の御霊の15年祭を
お仕えさせて頂く予定です。

父がお国替えしてから後
これまで知ろうともしなかった
父の人生、生きてきた軌跡について
知りたいと思うようになりました。

父の歩んできた道程は、
決して平坦ではありませんでした。
戦争のあった時代
みな夫々に
大変困難な中を
生き抜いてこられたわけですが
父もその中のひとりです。

わたしは戦争のない平和な日本に
生きています。

現代は現代で
戦中、終戦直後とは
違う苦労や困難ががあるのは
間違いのないことで
一概にどちらがどうと
比べられるものではないでしょう。

しかし
「時代が違う」と
過去のことを過去のことにしておくだけでは、
先人の苦労が意味を成さないような気が
するのです。

だって、
先人のご苦労の上に
わたしたちのいのちがあるのですから。

現代を生きるわたしが
「生きるとはどういうことであるのか」
「真の平和とは何なのか」
先人の生き様から
学びとりたいと思います。


さて、そういうことでわたしは
父が経験したシベリア抑留のことを中心に
本を読んだりして調べています。

そんな中
今読み進めているのは、

遠藤 誉 著
「チャーズ」という本です。

これは、シベリア抑留とは
直接は関係のない本ですが、
父がわたしに
「読んでみるか?」と
勧めてきた数少ない本の中の一冊でした。

この本の著者である遠藤誉さんは
旧満州(現在の中国東北部)のお生まれで、
先の大戦終戦後、
旧満州に家族と共に留まり
中国の国共内戦
さらにその後の
文化大革命などに
翻弄されながらも
生き抜き、
その後日本に引き揚げてこられました。

この遠藤誉さんのお父様は、
元々は大分のとある教会の熱心な
信者さんだったそうです。

父は大分の御縁のある先生から
この本のことを伺って知ったようでした。
ことのほかこの本の内容に共感していました。

戦中の父は
満州の南満州鉄道の
機関士助手?(石炭をくべる仕事)として働き、そこで応召。
満州で終戦を迎え、
日本に還れないままに
シベリアに捕虜として
約3年の間抑留されました。

同じ時代、
今は幻となった満州という国で暮らし
戦後の混乱を味わい、
また、理不尽な仕打ちに合う。
そして、頭の上で
コロコロと変わる正義に翻弄されてきたと
いうところが
父の体験とこの本の内容と
共通しているように思います。


父はまるで自分が言葉に出来ない部分が
代弁されているというような
少々興奮した面持ちで
わたしに、
「これは本当の事だ」
そう言って本を見せてくれました。

著者と同じ体験をした訳ではないけれど
父には
これが真実だと確信させられるものが
この本にあったのでしょう。

わたしは父の言うままに
この本を読みかけたのですが
当時小学生のわたしには難しくて
途中で読むのを止めました。

読破したのは
父がお国替えして後のことです。
内容が衝撃的で
涙が止まりませんでした。

それ以来お蔵入りしていた
この本ですが、
先月、関係教会の記念祭の御用で
大分へ行かせて頂いたときに
お直会の席で
この本の著者 遠藤誉さんが
最近コメンテーターとして
テレビの情報番組にでておられるということが
話題にのぼっていました。

それでわたしはまた
この本を
読み直してみようという気持ちになりました。

父が持っていたのは、
赤色の一冊だけでしたが、
その本の続編もあるということを
いつだったか伺ったことがありましたので
ネットで調べ、取り寄せて読みました。


終戦後
在満州の日本人の引き揚げが
始まる中、
著者の家族は満州に居留させられました。
著者のお父様は、ギフトールという
阿片中毒の特効薬の発明者であり、
阿片中毒者の多い満州では
引きて数多だったのです。
国府軍の命令でした。



しかし、中国の国共内戦が激化し、
国府軍が占領していた長春が
八路軍にとりかこまれ、(長春包囲戦)
兵糧攻めにあいます。
著者家族達は、生命の危機に直面し
ライフラインを絶たれた長春から脱出を
試みます。
しかし
国府軍の関所を抜けてみると
そこは、
「チャーズ」
と呼ばれるもっとも過酷な飢餓地帯

八路軍の関所はその先にありますが、
それは、開かずの関所と言われ
後にも戻れず
先にも行けず
チャーズの中で
いつ出れるとも分からないまま
飢えと絶望の日々を
送ることになります。

町中が飢える長春の中で
そして
餓死体で埋め尽くされたチャーズの中で
僅か7歳の著者が目の当たりにした
凄惨な光景は、想像を絶します。

このチャーズの存在は
中国でも
公にされていないそうです。

この長春包囲戦により餓死した
民衆は30万と言われています。
在満の日本人も多数いたそうです。

ちなみに
とても印象的だったのが、
著者のお父様が
真夜中のチャーズの
餓死体の山の前で
祖先賛詞を唱え、慰霊の祈念を捧げる
場面でした。

この道の信心を苦難苦境の中で
体現され、どんな時にも貫こうとなされている
著者のお父様の生き方に
わたしは、深く感銘するとともに
この苦難の道筋の物語のなかに
幾度も神様のお働きが見えてくるのを
感じました。





これはわたしの想像ですが
著者のチャーズに書かれてあった体験と
シベリアでの体験が父の中で
重なりあったのではないかと思います。

豊かで戦争のない現代日本に生きるわたしには
想像すら出来ない
本当の飢えと絶望。

父に
「これは本当の事だ」
と言わしめたもの
それはどんな絶望だったのでしょうか。





本日も読んで頂き、
有難うございました。



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不惑40

06 10, 2013




平成25年5月
わたしはとうとう
「不惑」の年になりました。

「四十にして惑わず」

とは言え、
まだまだこれからも
大いに惑いそうな危ういわたしです。(⌒-⌒; )


先日のことです。

ポッドキャストで
「ラジオ版 学問ノススメ」という
番組を聴いていました。

ゲストは能楽師の安田登氏で
著書「ー古代中国の文字からー身体感覚で「論語」を読みなおす。」
という本を踏まえたお話でした。

その中で
不惑というのは、
「四十にして惑わず」という
意味ではないかもしれない
というお話がありました。

どういうことかというと

論語というのは、そもそも
孔子の言ったことや行い、
あるいは彼の弟子が言ったことなどを
500年後に文書としてまとめられたも
のなのだそうです。


孔子が生きていた時代には
存在しなかった字が実は
論語の中にけっこう使われていて
なんと
「不惑」の「惑」という字は
孔子が生きていた時代に、
なかった字のひとつなのだそうです。

孔子の時代にあった字で
「惑」という字と見た目も音も
よく似ている字が
「或」という字で、
この字は「区切る」という意味があるそうです。


つまり、孔子は
「四十にして、或(くぎ)らず」と
言ったかもしれないというのです。


面白いなあと思いました。


わたしを含めて
人というのは、
それぞれの持ち場、立場の中で
各々の経験によって培われた価値観を
大切にしながら生きています。

経験値が増えていくほど
価値観の幅が広がるとも言えますが、
色々なことを見聞きし、
分かれば分かるほど
人は賢しくなり
これが正しくて
これは間違っている
これは相容れる
これは相容れない
というように
自ずと心の中に
境界を創り上げているような気がします。



安田登氏は、さらに
「四十にして、或(くぎ)らず」は
「初心忘るるべからず」に通じると
仰っていました。

自分の経験値や価値観に囚われず、
または、一旦ゼロにして
様々な立場の人やその考え方に対して
初心の頃のように
謙虚にかつ真剣に向き合う

それが
「或(くぎ)らず」な姿であると
いうことでしょう。



40歳と言えば
母が42歳の父と結婚した歳です。

元はと言えば、
わたしが
今ここに生かしめられているのは、
両親が各々にこの道の信心を頂き
神様のおかげを頂いて
縁が結ばれたからです。

さらに
その年齢から
こどもを産み育てるのは難しいと言われる中、
「神様の御用に立つ氏子をお授け下さい」
「神様の御心を分からせて頂く為に
親にならせて下さい」
とあきらめずに
神様に願い続けて下さったからに他ならず、
あの時、
両親が世間の常識や周りの心配の声に
心を囚われ、神様を信じきれずに
願うことをあきらめていたら、
わたしは、確実に今ここに居ませんでした。

この両親のこのような信心のあり様も
「或(くぎ)らず」な生き方のひとつ
と言えるのではないかと思います。


そのようにして
神様のお恵みの中で
両親の祈りの中で
生かされておりながら
そのことを知らず、気づかず、
わたしは自分の思いのみを中心に据え、
思い通りにいかない自分の人生を
嘆き、難儀に溺れてきました。
これは、ひとえに
自分で周りをくぎり
いつのまにか心を狭くしていたからです。

しかしなお、ここまで
辿り着けたのは、
何よりも
神様のお導きと両親の信心の徳を
頂いてのことであり、
わたしの力量だけで生きていたならば
きっと途中で力尽きていたことでしょう。

でも、いつまでも
神様に甘える、両親の信心の徳に
胡座をかいて何もしないというわけにはいきません。

40歳を迎えた今
これまでの難儀なあり様から、
改まる時がいよいよ来たのだと思わされています。


さて、
上の写真の中の絵は
わたしが年長さんの頃に描いた
絵です。

テーマは将来の夢なのですが、
他のお友達が
「保母さんになりたい」とか
「警察官になりたい」と
楽しそうに書いている横で
わたしは真剣にこの絵を描いていたのを
微かに記憶しています。


一時期、
この絵を疎ましく眺めたこと
ありました。
こんな幼い頃さえも
夢を持たされず
わたしは親の言いなりだったのかと(笑)


しかし改めて今、この絵を見ると
幼い頃の混じりっ気のない心で

「たった独りで御神前に祈る姿」

を描いていることに驚かされます。


これは
単に幼き頃のわたしの描いた絵
というだけに留まらず
他ならぬ
「不惑」の歳を迎えたわたしへの
神様からのはなむけであり
これからのわたしにとっての
「一本の傘」だと頂くのです。

これからもきっと
色々な人や出来事に出会う中で
惑いっ放しのわたしであろうかと
思いますが、
この「一本の傘」で身を凌がせて
頂きながら、
神様がわたしにかけてくださっている
願いの道沿いを
素直な心で歩ませて頂きたいと
願うばかりです。



これで「不惑」シリーズ(笑)
終わりです。
最後までお付き合い下さって
長々とお読み下さり
ありがとうございました。

とはいえ、わたしの人生は
まだまだ続くと思われます。
むしろこれからが本番、
ここからが勝負のようです。

改めて信心の緒の締め直しです。



本日も読んで頂き、
ありがとうございました。



追伸


ご紹介したポッドキャストの番組は
こちら(http://podcast.jfn.co.jp/poddata/susume/susume_vol206.mp3)
で聴けます。一聴の価値ありです(^^)

なお、もしわたしの聴き間違いがありましたら
相すみませんm(_ _)m





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不惑39

06 08, 2013





主人と結婚して9年
わたしの方は幾度となく
離婚を考えました。

特に母がお国替えをして後、
教会長にお取り立て頂いてからは
主人との関係に
独りで苦しんでばかりでした。

主人に信心を強制してはならない
でも、教会に住む以上、
教会長の夫である以上、
避けては通れないしがらみもあることを分かってほしい。
本音を言えば信心してほしい。

しかし、
期待通りになってくれない主人に
勝手に失望していました。

水害に遭ってからは
教会の御用に専念させて頂きたいとの
気持ちが強くなり、
自分には関係ないという
スタンスをとっているように見える
主人の態度に
わたしの心は
離れていくばかりでした。

ところが、
うつ病になり、
何ひとつ自分で出来なくなり、
いよいよ
本当の独りにならされたところで
ハタと気がつかされました。

色々ある中で
主人は一度も逃げずに
わたしのそばに居てくれたのです。
主人こそ、
逃げようと思えば
逃げ帰ることが出来る実家があるのにです。

わたしは、そのことを
何とも思っていませんでした。

もちろん、
かわいい
こどもたちがいるからでもありますが
それでも別れよう離れようと
思えば出来ないことはないし、
世の中そちらの道を選ばれる方は
沢山あります。

でも、その選択をせずに
今もなお一緒に居てくれる
そのことが
何よりもすごいことだと
思います。

それなのにわたしは、
主人が変わってくれることばかり
願っていました。
それは
どこかで主人よりは
わたしの方が信心出来ていると
驕っていたからです。

でも誰よりもわたし自身の
そのような願い方が
随分とこのお道の信心とかけ離れていました。

神様からご覧になったら
どちらが信心に叶うあり様だろうか?
ということを改めて
考えた時に
色々ある中に
教会から逃げたいとか
離婚したいとか
神様に喚き散らしていた自分より

ずっとわたしの側にいてくれた
主人のありようの方が
よっぽど神様の御心に沿った
生き方でありました。


わたしは、
主人と出会う前に

「神様がわたしに託して下さろうとしている御用をさせて頂く上で
必要であれば結婚させて下さい」
との願いを立て、
神様は
主人をお差し向け下さいました。

なのに、
わたしは、9年間
その神様からお差し向け頂いた
主人に対して
不平不足愚痴不満ばかりを
抱いてきました。

でも今改めて思うのは、
神様はわたしの気に合う
人を差し向けられたのでなく、
わたしの真の助かりのために必要と思し召されて
他の誰でもないこの主人を
お差し向け下されたんだということです。

わたしは改めて
このことを頂き直し
心から改まりたいと
思いました。




平成25年お正月
年頭の福引きで引いた
わたしのみ教えは

「おかげは受け徳。受け勝ち。」
でした。

おかげは受ければ受けるだけ
得だぞ。受けたもん勝ちだぞ。
そういう意味だと思っていました。

でも、わたしにとって、このみ教えは
それとは違う意味合いを持って
わたしの心に迫ってきました。

「おかげとは、自分にとって受け入れ難いことを受け入れていくことの先に頂ける徳のことぞ。
受け入れ難いことを受け入れることは、
自分の方が負けたように感じるかもしれないが、
神様のところでは受け入れた方が勝ちぞ。
ぜひともそういう徳を受けてくれ。」
ということだなあと。






本日も読んで頂き、
ありがとうございました。





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不惑38

06 05, 2013




記念祭をお仕えしてから
改めて
うつ病のことを考えていました。

薬物療法について
あまり良い話を聞かないということもあり
本当にこのまま続けて良いのか?
という疑念が湧いてきて
薬を辞めたい気持ちが
段々と膨らんでいきました。

でもお医者さまは
まだ早いと仰るばかりでした。

ある一面では
お薬のお力のおかげで
記念祭を乗り切ることが
出来たとも言えます。

でもこのまま
お薬に頼ってばかりでいいのだろうか?

実際には薬を頂いても
調子が悪い日の方が多く、
治る気配もありません。

薬を飲んでるはずなのに
何でこうなるのだろう?と
余計に目の前が真っ暗になりました。

「みな祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」
とみ教え下さっていますが

神様にお願いしてから
お薬を頂くという順番を守らせて頂いたものの、それは形ばかりのことであり、
実際のわたしの心はどうかと言うと
お薬を飲んで安心する
飲まないと不安という風に
いつの間にか
お薬の虜になっていました。

そういう頂き方では
おかげにならないのではと
思い始めました。

抗鬱剤 抗不安剤の多くは、
突然辞めてしまうと、
離脱症状が出てしまい
状態が悪くなるということがあるので
断薬は、専門の医師の指導のもとに
慎重に減薬を進めていくことから始めるのが常識です。

しかし結局わたしは、勝手をして
いきなり辞めてしまいました。

それから約半月ほど経ったころです。
こどもたちが夏休みに入り、
思い出作りにとわたしたち家族と主人の両親とで旅行に出かけることになりました。

その頃には
お薬の作用が身体から抜けつつあるのを徐々に感じ
一気に不安が膨らんでいました。

旅行に出かけると
さらに不安が倍増
細かいことが逐一気になり
ずっと不安の中にいました。

そして帰路の途中
些細なことがきっかけで
主人と喧嘩になりました。
いつもならグッと我慢しますが、
その時は自分の気持ちを
抑えることが出来ずに言い返していました。こうなると、売り言葉に買い言葉です。
義母にたしなめられ
言い合いは止めましたが、
わたしは自身の心を抑えられなくなってしまい、
とうとう家族の隙を見て
車から降りてしまいました。

家族から逃げたところで
わたしが帰るのを許されているのは
教会しかないのです。

それを分かった上で
車を降りたのです。

当てもなく彷徨いながら
行き着いた先は
昔主人と来たことのある海辺でした。
あの頃はこんなことになるとも知らずに
二人とも笑っていたなあ
夫婦になって8年
いつの間に笑えなくなったんだろう
そんなことを思いました。

海を見つめながら
ただただ
「死んでもう楽になりたい」
と思うばかりでした。

わたしの幸せは
どこにあっただろう

昔母が
「絶対に幸せになれるよ!」と
励ましてくれた声が
虚しく心に聞こえてきました。

夫婦って何?
親子って何?
家族って何?
信心って何?

わたしの居場所が
この世のどこにもないような
いたたまれなさを
感じていました。

しかし、つまらないことに
色々と心が囚われて
死ぬ勇気もなかなか出ない。
この後に及んで
そんな自分が情けなかったです。


時間は刻々と過ぎていきました。
そんな中でわたしは、
目前の光景に心を奪われました。

夕暮れ間近の太陽が
オレンジ色に輝きながら水平線の下へと吸い込まれていくように落ちていきました。
雲は風に乗って一瞬も同じ形に留まらず流れていき、
海は穏やかにかつ小刻みに波打ちながら夕日に照らされキラキラと輝いていました。

わたしはしばらくの間
その光景を
見るとはなしに見ていました。

足元に目をやると、
アリンコ達がせわしなく
動き回っていました。
その地面のアスファルトも
また海に浮かぶ船も
肉眼では分からないけれども
きっと変わり続けているんだろうなと
思われました。

みんな動いてる
みんな生きている
でも
みんな思いのままに、
我がままに勝手に
生きているのではなく、
ありのままを受け入れながら
「生かされていることに専念している」
ように見えました。

そうしているうちに
それに比べてわたしの心はどうだろうか?と思いました。

自分の思い通りにならないことを
気に病んでばかりではないか。
そうして
わたしは頑なに心を止めている
だけではないか?
勝手にジタバタともがき苦しんでいるだけではないか?

神様が
わたしのいのちを全うさせるために
与えて下さり、整えて下さっている
わたしの居場所を
自ら頑なに拒むからこそ
わたしは苦しまなければ
ならなくなるのではないか⁇


わたしは目前に広がる
天地の働きの動きそのものを目にして
頑なな自分の心の正体を
教えられた気がしました。


わたしも
あのお日様のように
あの雲のように
あの海のように
あのアリンコ達のように
船やアスファルトのように
何の力みもなく
生かされることに専念してみたい
と思いました。

そして
~教会に帰ろう~
と思いました。

最寄りの駅で電車を待つ間
主人にメールをしました。
主人は謝ってくれました。

教会に帰ると、いつもの居間で
主人とこどもたちが
普段通りテレビを見ていました。

「ただいま」というと
「おかえり」と返ってきました。
それ以外の言葉は交わしませんでした。


この時
家族の思いなど
まったく思いやる余裕は
まだわたしにはありませんでした。


わたしは、それから数日間
寝込みました。
わたしが失踪騒ぎを起こしてから
後に、
昔教会にお参りされていたことのある方が自殺されたという報に接しました。
わたしはつい前日
死に場所を探していました。

しかし、わたしは
死に切れずに戻ってきました。

ですから一線を超えて
死なねばならなかった
その方の苦しみを思うと
辛くていけませんでした。
そしてその方のことを
お助け出来なかったという
自責の念にかられていました。

主人が一向に状態が良くならないわたしのことを心配して
どうしたんか?と訊いてきました。

わたしは、自分が死のうとしたこと
昔お参りしていた方が自殺されたことを話しました。
その後発した主人の言葉に
わたしは愕然としました。

それまでは、
わたしだけが辛抱している
わたしが辛抱して
その場が丸く収まればそれでよいと
思っていました。
でもそれは、
わたしのおごりだった。
わたしが辛抱する以前に
主人は主人なりに
こどもたちはこどもたちなりに
辛抱してくれていた。

それを知ろうともせずに
わたしは自分の辛抱が報われないことにいつも腹を立ててばかりいました。

なんで分かってくれない?
なんでこうしてくれない?

くれない!くれない!と
相手に求めてばかりいました。

思い通りにいかないことこそ
不幸であると思っていました。

でも主人はそうではなかった。
ただただ黙々と
家族の為に自分の役割に徹していたのです。

わたしは主人の
表には出てこない気持ちを
初めて見ることが出来たのでした。

わたしの居場所はここにあった。
ずっとこうして守られてきていた。
わたしは、おかげの中にいた。
わたしは、幸せの中にいた。

しかし、わたしは
ごくごく表面の出来事に
右往左往して
いつの間にか
大切なことを見る眼を閉じてしまっていました。

肉眼をおいて、心眼を開けよ。
とのみ教えがありますが、

まさにその時
自分の心の眼が開かれた心地が
したのでした。


本日も読んで頂き
ありがとうございました。



追伸、、、

合わせて
下記の記事も一緒にお読み頂くと
より内容がわかるとおもいます。

生かされるがままに
http://fonwaka2.blog.fc2.com/blog-entry-138.html

見えない思い
http://fonwaka2.blog.fc2.com/blog-entry-141.html


お薬について
わたしは現在お薬に頼らないで済む
日々を送っておりますが、
うつ病に関して、医学的に寛解しているかという
判断はどこまでも分かりません。

抗鬱剤、抗不安剤を突然断ちましたが、あくまでも自己責任の上で行った行為であり、今となっては、きちんと
医師のご判断を仰いだ上で減薬を進めるべきであったと反省しております。

安易な断薬はするべきではありませんし、お勧めいたしません。
お薬のお世話になっている以上、
お薬の用法、用量は正しく守ることが
大切です。






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御本部教師研修会へ

06 01, 2013


28日から30日まで
金光教本部で開催された
教師研修会に参加させて頂きました。

この研修会は、
金光教学院を卒業し
金光教教師にお取り立て頂いてから
5年と20年経過した人を
対象に行われます。

わたしは20歳の時に
金光教教師にお取り立て頂いて
今年で20年になります。

前々から
この研修会を楽しみにしていて、
神様に参加のご都合お繰り合わせを
お願いしておりました。

結婚してからは
妊娠、出産、育児
そして教会御用の為
研修や信行会への参加を
見送らざるを得ない状況が
続いていましたので
この20年の教師研修会は
ぜひ参加させて頂きたいと
思っていました。
しかしなんと言っても
学院で共に1年間修行した
同期の方々に会いたいという
のが正直なところ1番の理由でした(^^)


2泊3日の長期間の研修に
参加する為には
主人や義母の協力が必須です。

勇気を出して相談しましたら、
快諾して下さいました。
とても有難かったです。

ところが
第一日目の28日が
幼稚園の母の日遠足と重なってしまい
第一日目の講師の講話に
どうしても間に合わない
ということがわかりました。
残念でした・°°・(>_<)・°°・。

でも、よくよく考えてみると
二日目や三日目と重なって
しまうよりかはいいのです。
これも神様の最善のお繰り合わせを
頂いてのことだと思い直し
喜んで母の務めを
完うさせて頂こうと
思いました。

前日の27日の夜は
3日間教会を空けるので
その段取りや荷物の準備、
遠足のお弁当作りなどもあり、
また興奮して目が冴えて
正味2時間ぐらいしか
寝られなかったです。
(大したことはやってません。
ただ能率が悪いだけです、笑)


寝不足の中
幼稚園の遠足に参加しました。
28日は朝から
嵐のような天気で
園のホールで行われました。

予定より少し遅く13時半前に終了。
14時過ぎの新幹線に間に合いたいと
思っていたので急いで帰宅すると
義母も少し前に教会に来て下さってました。挨拶もそこそこに
次男をお願いして
着替えてすぐに出発しました。


外はかなりの風雨だったのですが
ダイヤにも乱れなく順調でした。
岡山に入ると風は穏やかで
雨は降っていませんでした。

17時前に本部広前会堂に到着
御礼申して
研修会会場の光風館へ行きました。

そして
班別懇談に参加しました。

その後は夕食と入浴

その後は同期の皆さんと
9時半まで飲みながらお話しました。

皆さん20年前の学院生当時と
少しも変わってなくて
しばし、昔にタイムスリップしたような感じでした。


翌日は
3時起きのスケジュールでしたので、
明日に備えて
早く寝ないといけないのですが、
横になっても
なかなか寝付けませんでした。

こういう時は焦れば焦るほど
目が冴えますね。
次の日の体調のことが
心配になりました。
しかし
眠れないのもこの度の研修会の修行の中味と頂こうと思いました。
午前1時過ぎに眠りについたようでした。

二日目の朝は
本降りの雨模様でした。
二日目になると
黒衣に着替えておられる方が
増えました。

わたしも黒衣で参加させて
頂くべきだろうと思っていました。
でも結局、黒系のスーツにしました。
これにはいろいろ事情があってのことでした。

お出ましを拝ませて頂くのは
10年以上ぶりです。

わたしにとっては
10年以上ぶりの特別な朝ですが
御霊地では毎日毎日
眈々と営み続けられている
ごく日常の一コマなのです。

お出ましを拝ませて頂いて会堂に
入る最中に
共に御霊地で御用させて頂いたことが
ある同期が
「御本部で御用してるとき、
お出ましを拝んだことある?」と
訊いてきたので
「無いねえ」と正直に答えました。

とても心が荒れていて
神様に背中を向けていた頃の
自分にしばし思いを馳せていました。
そして
若い頃には分からなかった
金光様の有難さを感じていました。

「歳を取らんにゃ分からん」
母がよく言っていた
若かった頃のわたしの大嫌いな言葉です。
今は真理だと思えます。
歳を取らせて頂きましたからね(笑)

本部広前御祈念、
教祖奥城教団奥城参拝後、
修徳殿で御祈念させて頂きました。
当初の予定は神前拝詞10巻でした。
でも諸事情で12巻になりました。(・・;)
所要時間は軽く1時間を超えます。
みんな足がもつか心配していました。わたしも心配でした。
そういう意味では袴の方が楽でした。
わたしはタイトスカートでしたので「これは厳しいなあ」と思いました。

御祈念中は
涙が溢れて止まりませんでした。
足が痛いからではありませんよ。
この20年の出来事が思い出されて
20年前も確かにここで
同じようなことをさせて頂いたなあ
色々あって
身も心も神様から離れてしまった
と思うようなこともあったけど
また再びここに神様が
連れてきて下さったなあ、

この20年は
どこをどう歩いてきたやら
堂々巡りしてたような
蛇行していたような気がするけど
ここにきて
立ち止まって振り返ってみると
ちゃんとわたしが歩んできた後ろには
道筋が出来上がっていることが
有難くてもったいないなあ
と思いました。

そして家族の顔が思い出されて
わたしはおかげの中に
いたんだなあと実感していました。

何巻お唱えしたか
分からなくなった頃
急にスタッフの先生から
ストップがかかりました。
なんとタイムリミット!(笑)
あと3巻で終わりというときだったそうです。
ある方が
「当初の10巻という願いを変えなければ最後までお唱え出来たのにね」
と言いました。
まったくその通りだ!と思いました。
でもこの煮え切らない思いを受け入れるのも修行の中味なんだと思いました。
そもそも
神前拝詞10巻以上お唱えするなんて
わたしの日常ではしたくても
まず出来ないことですので、
こういう時間が持てるだけで
とても贅沢なことなのですから。

二日目の講話は
布教一部長の山本正三先生でした。
「神人あいよかけよの生活運動」に
ついてのことでした。

縦軸と言われる
「神様とわたしの間柄はどうなっておるのか?」
というその中味をもっともっと日常の中で掘り下げて考えたいと
思いました。


講話の参考資料の中に
載っていた山本定次郎師が
お伝えになられた教祖様のみ教えが
心に沁みました。

「木の恩を知りておる人少なし。
木の生えるはじめ双葉であるが、
おいおい成木するのは天地の親神の
おかげである。
田畑に植える物には肥やしを施すが、山には肥やしを施す者なし。
日に月、年を重ねて大木となる。
これを用材として家屋建築するに
つきては、第一、天地の神のご恩を
知らねばならぬ。」
「秋は木の葉が落ちるを見て、
神様のおかげであることをしらねばならぬ」

講話が終わると
隣に座っていた同期のTさんが
寝らんかったぞーとガッツポーズしてて笑いました。
わたしも寝らずに済みました。

16時の御祈念、金光様のお退けまで
休憩や昼食を挟みながら
班別懇談が続きました。

夕食は内局の先生方と御一緒にということでした。
暫く同じ班の同期の先生とお話しながら食事を頂いていました。
その後
教務総長である岡成先生のところへ
ご挨拶しに行きました。
岡成先生とは同教区、同県で
何かとお世話になりました。

でも、教務総長になられてから初めてお目にかかるので
「気がついたら随分高いところにおられるのでビックリしました( ̄▽ ̄)」
と言いました。
その後以前からお聞きしたかったことを質問させて頂いたりしました。
岡成先生はレベルの低いわたしにも色々と分かりやすく
噛み砕いて教えて下さるので有難いです。
で、時々グサッと刺されそうになるのでウカウカと聞いておれません。(・・;)

まだまだ話足らないところがあったのですが
ここでもタイムリミット(笑)でした。


食後訓が終わり、
先程の講師の山本先生にご挨拶をと思いました。
山本先生は元西中国教務センター長の頃、お世話になりました。

しかし、他の方とお話されていたので
わたしは自席に戻り、食事していると、肩をポンっと叩かれ振り向くと
ご挨拶に参りました( ̄▽ ̄)と、山本先生が。。

わたしは、山本先生に謝らないといけないことがありました。
このブログの最初の方で山本先生の講話をUPしましたが、途中切れになっていたからです。

すると、
「いつもブログ見てますよ。
今日こそはわたしの講話の記事が
更新されているはずだと思って(笑)
結構ググるとあの記事がヒットしちゃうので困るんですけどね?( ̄▽ ̄)ニヤニヤ」


もうへんな汗が沢山出ました(笑)
近いうちに更新させて
頂くことを誓いました(⌒-⌒; )

その後は時間の許す限り
同期や5年で参加の方とと飲みながら
色々とお話や情報交換させて
頂きました。

特に教会長というお立場で御用されて
いる方のお話を伺うことは
勉強になるし、元気を頂きます。
みな教師であるので
長であるか、ないかは
関係ないかもしれないけども
じゃあ何故お役が存在するのか?
ということを考えます。
やはり、あるということは
そこに神様からの願いがあるのだと
思うのです。
わたしはそこをもっといただかねば
なりません。

2日目の夜は、
布団に入ったかと思ったら、
すぐ3日目の朝でした。(・・;)
たぶんグッスリ寝られたんだと
思いました。

2日目と同じように
3時に起きて
金光様のお出ましを頂き
御祈念、奥城参拝を
させて頂きました。

朝食後、
お世話になった宿泊部屋などの
お掃除をさせて頂きました。
お掃除させて頂きながら
日頃はこんな清々しい気持ちで
お掃除していないことを
反省してました。

それからは
最後の班別懇談でした。

教師研修会では
この班別懇談に
かなり多くの時間を
設定してありました。

同じ班のメンバーの方に
色々と聞いて頂いたり
様々な事柄について
違った視点で
教えて頂いたりして
気がついたり、
感動したり
沢山のものを頂いた気がします。



四十年褒賞がひとつの頂上とすれば
わたしはやっと
五合目まできたことに
なります。
これから先は
今まで以上に急勾配で危険な
坂道になるでしょうが
神様の手をしっかり
握らせて頂いて
人を助ける神様の御用に
使って頂きたいと
改めて思いました。



こうして無事全日程を
恙なく終えさせて頂きました。



本日も読んで頂き、
ありがとうございました。



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ご訪問ありがとうございます

わたしは
金光教の教会に生まれ育ちました
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会社員の夫と
3人のこどもたちに恵まれ
賑やかな日々を送りつつ
信心の稽古に励んでいます

このブログは
一枚のフォトと共に
主にわたしの過去と現在の
信仰生活について
綴っています。

自分自身の為に
わたしの有り様を見つめる為に
綴る日誌です。

さらに
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わたしにとっても
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